Top > 靴下の歴史

文献的には2世紀頃、すでにエジプト人が足袋のように親指と他の四本の指に別れた靴下を履いていたと記されています。 しかし、これは靴との区別がつきにくく、靴下のルーツとは言えません。現在のような靴下の起源は西暦約1000年前後、気候の寒い北ヨーロッパで、絹・薄い毛織物・細糸の綾織木綿・毛布などを裁断して縫い合わせたふくらはぎ丈の短いものが用いられるようになったとされています。この頃は防寒が主目的で靴下がファッション性を持ち始めるのは、1400年代に入ってからのことです。この時代を背景にしたオペラやバレエを見れば、左右色違いの長靴下をレースなどで胴着に結びつけたカラフルな男性ファッションが登場します。1500年代に入ると半ズボンが流行し、ももまでの長いホースは脚の下半分のものになりました。さらに1800年代に入ってズボンが長くなると靴下が目立たなくなり短い靴下の時代に入りました。女性は長いスカートを履いていたため靴下の見せ所がありませんでしたが、19世紀末にスカート丈の短い服が流行してから、女性のファッションとして靴下が始まりました。

1547年にヘンリー八世(英国王)への贈り物として手編みの絹靴下が記録されています。この記述がニット靴下を記した最古の記述です。当時スペインはヨーロッパ最大の富国で全ヨーロッパの服飾流行のメッカでもあり、履き心地のよい手編みの絹靴下はスペインからイギリス、フランスへと瞬く間に広がっていきました。ヘンリー八世の後を継いだエリザベス女王などは、はじめて手編みの絹靴下を履いた時「もう二度と布製のものは履きたくない」と言われたそうです。(J・ストーの「イギリス年代記」より)
靴下が機械編みできるようになったのは1589年のイギリス人副牧師ウィリアム・リーによる手動式メリヤス編み機発明によるもので、これは人類最初の画期的な編物機械でした。それから280年後に産業革命の波にのってウールや木綿のストッキングが大量生産されるとともに急速に普及することになりました。

いまから100年以上前の明治四十三年に旧馬見村大字疋相の実業家である吉井泰治郎氏がアメリカ視察から現在の広陵町へ靴下編み機を持ち帰り、靴下生産を始めました。これが“靴下の町 広陵町”の始まりです。当時の編み立機はすべて手動によるものでした。第一次世界大戦が起こるといわゆる大戦景気で靴下生産戸数は6件から30件にまで達しましたが、戦争が終わると大正十二年の暴落の影響で輸出もできなくなり靴下加工業は衰退していきました。大正末にはアメリカから自動の機械が日本へ入ってきましたが、高価(当時の千円)で熟練も難しく機械の修理所も無いことから 靴下加工業の復興は容易ではありませんでした。やがて昭和へ入りB式と呼ばれる日本製の編み立て機や、リンキングと呼ばれるつま先部を縫う機械が登場し普及していきました。その後は高級柄編機械が広陵町全域で取り入れられて精巧な柄の靴下が編めるようになり、昭和三十年頃にはゴム糸を自動的に切り継ぎをすることができる機械も登場し従来の手まわし機の3~4倍の能率をあげることが可能となりました。またウーリーナイロン糸の登場により飛躍的な発展を遂げ、質・量ともに全国一の規模を誇る伝統ある靴下産地として成長しました。